拳法とは.......

日本の「拳法」H20.8 木村和生(関西大学OB)著

日本における【拳法】~木村 和生(著)~ 日本拳法と少林寺拳法 平成20年8月


■日本拳法会(歴代会長) 平成20年8月現在(日本拳法全国連盟)

初代会長              澤山 宗海(本名:澤山 勝)    昭和7年 ~ 昭和29年
                      →(1906~1977)明治三十九年十二月十二日奈良で生まれた

二代目会長           矢野 文雄(昭和9年法学部卒)   昭和29年 ~ 平成 1年?

三代目会長           友田 忠                       平成 1年?~ 平成12年

四代目会長以降

日本拳法会のホームページを参照ください。


■日本拳法連盟

日本拳法連盟のホームページを参照ください。


■日本拳法全国連盟

日本拳法全国連盟のホームページを参照ください。


■日本拳法協会(歴代会長) 平成20年8月現在

初代理事長           森 良之祐(最高師範)     昭和30年 ~ 平成11年? 最高師
                     →(1926~2007)大正十五年一月十五日徳島で生まれた
                            ~ 平成19年2月11日没

二代目理事長       石黒 邦男(旧姓:菊池)     平成11年?~ 平成18年

三代目理事長       猪狩 元秀(主席師範:茂より改名)平成18年 ~ 現在
                   →(1950~現在)昭和二十五年五月十九日東京で生まれた


■士道 日本拳法協会

初代                     森 良之祐(最高師範)
以降は、「士道 日本拳法協会のホームページを参照ください。」

 

★少林寺拳法「これはシナの武術。喧嘩の仕方を教えてやる」嵩山少林寺

創設者              宗 道臣(そう どうしん:本名/中野 理男(みちお))
                    →(1911~1980) 明治四十四年二月十日岡山で生まれた
                       昭和22年 ~ 昭和55年

二代目              宗 由貴(そう ゆうき)   昭和55年 ~ 現在
                    →1957年香川県多度津町生まれ。2男の母。

准拳士 初段 → 少拳士 二段 → 中拳士 三段 → 正拳士 四段 
 → 正拳士 五段 → 大拳士 五段 → 大拳士 六段 → 准範士 六段
 → 准範士 七段 → 正範士 七段 → 正範士 八段 → 大範士 八段
 → 大範士 九段   師家
※現在は「師範」という法階は使われていない。
 なお、「師家」とは少林寺拳法グループの総裁のみの役職である。

道院・支部における助士・助教は、中拳士三段以上で、かつその他の条件を
満たす者の中から指導者としてふさわしい者が任命され、
支部長にになるには、五段以上の武階、道院長になるには、
大拳士五段以上の武階および法階の資格と、
宗教法人金剛禅総本山少林寺の僧階である大導師以上の資格が必要となっている。
昇格考試は、各都道府県連盟で各々の地域で実施されている。
但し、正拳士四段以上は指導者として位置づけられており、
香川県多度津町の金剛禅総本山少林寺でのみ実施される。
少林寺拳法の修練時は道衣と帯を締める。
2005年4月以降は統一ロゴ・マーク:双円(ソーエン)が制定され、   
道衣の胸には統一マークの道衣をきて修練する
(2008年4月1日より刺繍入り道衣、許諾ラベル付き帯に完全移行)。
また、袖に所属を表す袖章を表記するようになった。

袖章の色
 赤● 金剛禅総本山少林寺管轄(一般の道院)
 青● 財団法人少林寺拳法連盟の支部(学校クラブや支部)
 緑● 学校法人 禅林学園
 紫● 少林寺拳法世界連合 (WSKO)
さらに、道院・支部関係の所属長は金、五段以下の所属長
(道院の場合は法階が大拳士以下、あるいは僧階が大導師以下
などの道院長心得の者)は銀、助教等の役職で中拳士参段以上は
赤の刺繍があわせて施される。


■日本の「最古の拳法と今真流」H20.9 木村和生著  空手関係簡易年表を同時掲載

日本における最古の拳法と今真流【日本伝流兵法 本部拳法】~木村 和生~ 平成24年8月12日改訂

■日本伝流兵法 本部拳法(にほんでんりゅうへいほう もとぶけんぽう 日本傳流兵法 本部拳法)
本部朝基を開祖とする日本最古の空手の流派。本部流唐手術、本部流ともいう。

【歴史】

流派の命名は、本部朝基(もとぶ ちょうき)が大阪に道場を開いていた大正時代とされる。
元来、空手には流派がなく、今日の空手流派はすべて空手が本土に伝来した
大正・昭和以降の命名であるが、その中でも日本伝流兵法本部拳法(以下、本部流)は
最も古い歴史をもつ。

大正11年(1922年)11月、京都で行われたボクシング対柔道の興業試合に、本部朝基が
飛び入りで参戦し、相手の外国人ボクサーを一撃で倒すと、それまで本土でほとんど
無名であった沖縄の武術・空手(当時は唐手)に対する世間の関心が、にわかに高まった。
翌大正12年(1923年)春から、本部は空手指導の依頼を受けるようになる。
本部は請われるまま、兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)や御影警察署において、
空手師範をつとめた。

また、この頃から大阪において、空手道場を開いて指導に当たるようになった。
この時の弟子には、山田辰雄(日本拳法空手道・大正13年入門)や上島三之助(空真流)、
田中吉雄(今真流)らがいた。
昭和2年(1927年)、本部は東京に移って、東洋大学唐手部の初代師範や鉄道省の唐手師範をつとめた。
また、昭和9年(1934年)、東京小石川原町(現・文京区白山)に空手道場「大道館」を設立した。
東京時代の弟子には、大塚博紀(和道流)、小西康裕(神道自然流)、長嶺将真(松林流)などがいる。
昭和16年(1941年)、道場を閉鎖して本部は故郷・沖縄に戻った。

『本部朝基とその門下生(大阪)。
本部朝基、
山田辰雄(助教師)、
上島三之助。
田中吉雄(後の今真流宗家)。
大正15年(1926)。』

【特徴】

本部朝基は、首里手の松村宗棍、佐久間親雲上、糸洲安恒、泊手の松茂良興作等に師事した。
それゆえ、本部流は首里手と泊手の流れを汲み、
さらに本部朝基の「掛け試し」の実戦経験から攻防一体をその理想とするのが特徴である。
以下に、本部流の基本的特徴を列挙する。

型……本部流では、ナイファンチの型を最も重視する。これが本部流の基本であり、
      ここから本部朝基の組手が展開される。本部朝基はナイファンチしか知らない
      揶揄されるほど、この型を得意とした(実際は、他の型も指導していた)。
立ち方……ナイファンチ立ちを左右いずれかに捻った立ち方が基本である。
          本部流では、組手において前屈立ち、後屈立ち、猫足立ちは原則として用いないとされる。
          これらの立ち方は、自由な運足を妨げる、不自然なものとして退けられる。
構え方……夫婦手(メオトーデ)が基本の構えである。夫婦手は古流の構えであり、
          本部流以外ではほとんど見られない。左右の手は連動して、どちらも自在に攻め手、
          防ぎ手に切り替わる。本部朝基の夫婦手の構えの貴重な写真も残っている。(以下)
入身……彼我の距離がほとんどなくなるほど、極端な入身を多用する。至近距離からでは
        正拳突きは効きにくくなるので、鶏口拳・裏拳を重視する。
攻防一体……攻撃・防御の二つの動作を一動作で済ませるようにする。
            一方の手で受け、他方の手で攻めるといった動作は、
真の武の動きではないとして退けられる。
組手……朝基十二本組手。現存する最古の約束組手であり、上記の特徴がすべて網羅されている。
        大正15年に本部が出版した『沖縄拳法唐手術・組手編』に、写真解説付きで
        掲載されているものである。


※参考文献

  本部朝基『日本傳流兵法本部拳法』壮神社(復刻版)1994年
  岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂 ISBN 4750202479『本部朝基の夫婦手の構え』
  小沼保『本部朝基と山田辰雄研究』壮神社 1994年
  小沼保『本部朝基正伝 琉球拳法空手術達人(増補 )』壮神社 ISBN 4915906426
  長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 1986年 ISBN 4404013493


【今真流】

■今真流(こんしんりゅう)は、関武綱が開いた柔術の流派である。

今真流柔捕術と称す。
江戸時代、森氏藩政期の赤穂藩で伝承された。
天保年間に今真流の皆伝を得た赤穂藩士・山本清信は、
今真流に関口流の技を採り入れた。
今真流第10代の上島三之助は、今真流と同じく赤穂藩で
伝承されていた高木流に併伝されていた九鬼神流棒術も
修行した。さらに本部朝基に空手を学び、空手に九鬼神流棒術を
加えて空真流空手道を創始した。
ここで第10代今真流宗家として、田中吉雄(小生、木村和生の祖父)
に分派されており、田中吉雄は、満州事変、太平洋戦争(第一次世界大戦)での
自身の実戦で使った今真流のみを重んじ、家系に伝承した。
現在、一般的に今真流は空真流に含まれているもののみが知られている。
真の今真流第11代宗家は、木村和生が密かに受け継いでいる。
一般的には、後述の空真流空手道の松崎宝龍氏が空真流宗家と今真流第11代宗家を名乗る。
上島三之助の弟子の松下匡は、上島から学んだ柔術・棒術を基に
能除修験流古武道を開いた。(松下は空手でも松下派空真流を開いている)
2007年4月現在、空真流空手道の第2代宗家・松崎寳龍が
今真流柔捕術第11代宗家も名乗っている。


【付録】空手道関係簡易年表

1279 南宋亡ぶ。元の統一。
1291 元使来琉。入貢すすむ。琉球従わず。
1296 元、琉球を攻める。
1367 元、亡ぶ。
1368 明、建国。
1383 南山、北山初めて明と通交。
1389 中山、朝鮮(高麗)に使を派遣。シャムと通交始まる。
1392 ?人36姓帰化。中山、南山初めて留学生派遣。
1396 武寧即位。北山王冊封を受ける。
1401 足利義満、倭寇を禁ずる。
1404 シャム船来琉。南山王汪応祖冊封を受ける。
1405 武寧、巴志に亡ばされる。
1400 尚思紹即位。
1409 中山、朝鮮に使を派遣。漂流民を護送する。
1415 南山王他呂毎冊封を受ける。
1416 巴志、北山を亡ぼす。
1422 尚巴志即位。
1429 尚巴志、禁武政策。尚巴志、南山他呂毎を討って三山統一。
1430 ジャワと通交はじまる。
1450 尚金福王の使者の従人人を殴り殺して死刑。朝鮮人大島に漂着。
1456 マラッカの通交始まる。朝鮮人久米島に漂着。
1461 鬼界島征伐。
1463 スマトラと通交始まる。
1466 鬼界島征伐。
1472 尚円王の使者の従人人を殴り殺して二年一貢となる。冊封使来琉。
1477 尚眞即位。朝鮮人金非衣ら与那国に漂着。
1500 八重山征伐。
1522 鬼虎の乱。虞建極京都に上る。
1537 大島征伐。
1556 尚清の第2子、倭寇を撃退する。
1571 大島征伐。
1596 冊封使武官となる。
1609 島津、琉球を征伐。禁武攻策。
1611 島津、掟15条を下知。奄美大島、徳之島、沖之永良部島、鬼界島、与論島、
   島津の直轄地となる。
1625 明人陳元贇拳法を伝える。
1669 この頃武官汪揖拳法を伝える。
1762 「大島筆記」なる。これ以前公相君拳法を伝える。
1782 唐手佐久川生れる。
1786 「琉球科律」なる。
1797 松村宗棍生れる。(諸説有り定かでない)
1809 松村宗棍生れる。(諸説有り定かでない)
1816 べ一シル・ホール来琉。
1827 安里安恒生れる。
1830 糸洲安恒生れる。
1853 東恩納寛量生れる
1862 唐手佐久川没す。
1868 〔明治維新〕留学生派遣。船越義珍生れる。
1870 本部朝基生れる。
1872 東恩納寛量、唐手術修業のため中国福建省へわたる。琉球藩設置、尚泰王藩主となる。
1875 琉球藩に清国との関係断絶を通告。
1877 上地完文生れる。
1879 沖縄県を設置し琉球藩廃止される。
1882 講道館創立。
1885 知花朝信生れる。
1886 徳田安文生れる。
1887 許田重発生れる。東恩納寛量中国福建省より帰国。
1888 宮城長順、遠山寛賢生れる。船越は糸洲に師事。
1889 摩文仁賢和、大城朝恕生れる。東恩納寛量、那覇市に唐手術道場を開設。
1890 域間真繁生れる。松村宗棍没す(諸説有り定かでない)。
1892 大塚博紀生れる。
1893 小西康裕生れる。
1895 松村宗棍没す(諸説有り定かでない)。上島三之助生れる。大日本武徳会設立。
1896 松村宗棍没す(諸説有り定かでない)。平信賢生れる。
1898 比嘉世幸生れる。
1900 知花朝信糸洲に師事。上地完文、唐手術修業のため中国福建省松溪に渡る。
1902 宮城長順、許田重発ら東恩納に師事。
1904 宮城長順、唐手術修業のため中国福建省へわたる。
1905 糸洲安恒、平安の型を創案。小幡功生れる。沖繩県立一中師範体育に空手採用
   花城長茂「空手組手編」 船越ら県下公開演武
1906 安里安恒没す。宮城長順、中国より帰国。山口剛玄、玉得博康生れる。
1907 長嶺将真生れる。
1908 糸洲安恒、唐手十訓を記す。
1909 田中吉雄生れる。
1910 比嘉佑直、八木明徳生れる。
1911 上地完文、中国福建省より帰国。上地完英生れる。
1913 高木正朝、中山正敏生れる。
1915 糸洲安恒、東恩納寛量没す。坂上隆祥、江里口栄一生れる。
1918 摩文仁賢栄、福井功生れる。
1919 金城裕、伊藤公夫生れる。香川治義生れる。
1920 高木房次郎、木崎友情、打揚憲造生れる。屋部憲通ロスアンゼルスにて唐手術演武。
1921 相沢大一郎生れる。
1922 第一回体育展覧会開会。本部朝基上阪。船越義珍上京。体育展覧会ならびに講道館において、
   唐手術公開演武、船越義珍(観空大)儀間真謹(内歩進)。船越義珍「琉球拳法唐手」出版、
   明正塾にて唐手術指導開始。
1923 岩田万歳生れる。
1924 慶大空手部創設。
1925 一高空手部創設。
1926 東大空手部創設。
1928 摩文仁賢和、宮城長順上阪。
1929 東大生三木二三郎沖繩へ武者修業(唐手研究)。東大防具組手を試みる、自由組手も試みる。
1930 大城朝恕没す。立命館大空手部創設。三木二三郎・東大空手部「拳法概説」出版
1932 宮城長順「唐手道概説」出版。
1933 摩文仁関西大師範
1934 摩文仁賢和、大阪に「養秀館」道場開設。
1935 船越「空手道教範」出版。
1936 稲垣五兵衛、錬士号授与。
1937 屋部憲通没す。宮城長順、小西康裕、唐手術教士号授与。船越松濤館設立。
1938 摩文仁賢和、仲曽根源和共著「攻防拳法空手道入門」出版、大塚博紀錬士号授与
1939 上島三之助教士号授与。摩文仁賢和、船越義珍、野沢一世、袖山豊作、船越義豪、   櫛橋正次、清水敏之、江藤武彦、新里仁文、錬士号授与。
1940 瓦葺隆輔、長嶺将真、金城兼盛、比嘉世幸、山口剛玄、錬士号授与。
1941 崎浜盛次郎、糸数義男、錬士号授与。本部朝基没す。
1942 文部省空手は柔道の一部と通達。
1944 船越義珍、大塚博紀達士号授与。坂上隆祥、辻川禎親、錬士号授与。
1945 花城長茂没す。(敗戦)武道全面禁止。
1946 大浜、広西GHQ、文部省と交渉。空手は禁止を免れる。
1948 上地完文没す。
1950 全日本空手連盟結成。
1952 摩文仁賢和没す。
1953 宮城長順没す。
1956 沖縄空手道連盟結成。
1957 船越義珍没す。第一回日本学生選手権大会。
1963 木村和生 生まれる。
1964 全日本空手道連盟結成(会長・大浜信泉)。
1968 許田重発没す。
1969 知花朝信没す。財団法人、全日本空手道連盟発足(会長・笹川良一)、第1回全日本空手道選手権大会(東京)。
1970 遠山寛賢没す。第1回世界空手道選手権大会(東京)。
1971 第2回全日本空手道選手権大会(東京)。
1972       第2回世界空手道選手権大会(パリ)。

以上


■澤山宗海先生の紹介と日本拳法の始まり(H20.10up)

雑古哲夫先輩のHPで紹介されておりますが、誤字があったので修正したものを掲載しました。


 澤山 宗海 (1906~1977)
さわやま・むねおみ 校友。日本拳法宗家。
明治三十九年(1906)十二月十二日奈良で生まれた。本名・勝(まさる)。
大正八年(1919)に偕行社小学校尋常科を卒業し日新商業へ進む。
同十五(1926)年関西大学予科に入学。昭和四(1929)年法文学部法律学科に進学。
在学中から柔道、古武道、空手等の練習に励み、本学を卒業した七年秋(1932)には大日本拳法会を結成して会長となる。十五年二月(1940)応召により出征し、中国南部を転戦 。二十一年五月(1946)復員。二十二年(1947)頃から日本拳法会の再建整備にとりかかり、二十八年(1953)に初の東京公開演武を行う。
二十九年(1954)母校 関西大学 に採用され正課体育日本拳法の講師となる。
これを機に宗家を号し、三十九年十二月(1964)著書『日本拳法』を出版。
四十二年(1967)、大阪薫英女子短大教授。
五十年九月 (1975)病に倒れ、以後療養につとめたが、昭和五十二年九月二十七日没した。七十歳(1977)。

日本拳法のスタート 昭和七年秋のある日曜日、美津濃スポーツ店三階の喫茶室。いずれも屈強な若者か集まっていた。「大日本拳法会発会式」
 「では……」。澤山宗海、矢野文雄、八木種一、山田錬一、中野満、黒山高麿、茶谷公俊の七人は、お互いに顔を見あわせた。拍手もなければ、スポットライトをあびてのスピーチもないささやかな発会式だったが、この七人にとって言葉は不要だった。すでに従来の唐手(空手)にはない自由組手を考案して、独自の道を歩き始めてはいたが、改めて志が一つになった。そしてこの日、決意をこめた第一歩が踏み出された。新発足の拳法会会長になった澤山宗海(むねおみ本名勝)は明治三十九年(一九〇六)十二月十二日奈良で生まれ、父兼造、母真子の一人息子として育てられた。この時わずか二十五歳の若さだった。大正八年に偕行社小学校尋常科を卒業し、日新商業へと進んだ。その後、十五年に関西大学予科へ入学し、昭和四年法文学部法律学科に進学した。日新商業に入った頃から柔道を始め、在学中に早くも五段の腕前だったという。学生時代の澤山はかなりの”硬派”で、「沢勝さん」という愛称も、当時の関大では畏敬のニックネームだった。その頃、柔道部長をつとめた掘正人(関大名誉教授)は、こう述懐する。「澤山君は重さ七十キロ位の鉄アレイを片手で楽々と持ち上げるはどの力持ちだった。腕など丸太のように太かった」
 新しい武道を求めて <新しきを知るも、古きを識らざるは、進歩にあらず。外に得るも、内に持たざるは、進取にあらず。>(澤山宗海著『日本拳法』)

 相撲、柔道は盛んだったが、その他の徒手格技ははとんど行われていなかった昭和初期、沖縄から唐手が伝わってきた。 「何とか新しい武道を作りたい」と、柔道の他に古流の当身などを模索していた澤山は、早速学内で唐手研究会を作った。昭和五年六月十五日のことである。そして数人の仲間とともに、摩文仁賢和師範のもとで唐手の修業に励んだが、次第に型と実際との間に矛盾を感じるようになった。当時、唐手は一人または二人相対の型稽古が主流で、自由に撃ちあうものではなかったからだ。「武術はやはり競うべきものだ。型稽古だけでは実際に戦った場合、うまくいくかどうか疑問だ」
 そうした時、澤山に大きな示唆を与えたものがあった。それは剣道の発達史だった。古流の型剣道から始まって(ふくろじない)さらに防具と竹刀を使って実際に打ちあいをするようになった経過が、そのまま型拳法の進むべき方向を暗示していた。

 「自由に撃ちあい、蹴りあう拳法を作ろう」。こう考えた澤山は、下級生の多久正紀・次郎七兄弟、山田錬一らとともに夜毎、垂水神社(吹田市垂水)の境内に集まって技の研究を始めるようになった。そしてまず案出したのが、拳足を相手の体に当てずに空撃する自由組手(空乱)だった。しかし反面、いろいろと苦労も多かった。澤山はのちに、この時の様子を次のように書き残している。
 「何といっても初の試みである。空撃のつもりが本当に当る。鼻血をだしたり、頬や胸に痣がつく。月光と灯火とに照され互いに虚を狙って闘う姿はかなり凄壮なものであった」
 この自由組手は関西大学の研究会、大阪の洪火会本部道場、吹田の道場などでも行われ、一層洗練の度が加えられた。こうして次第に唐手とは全く異なった拳の世界が作り出されていった。そして昭和七年秋、ついに関西大学で日本拳法会が結成された。
 苦心した防具作り 従来の型稽古一辺倒を脱し、自由組手という稽古法を考案した澤山は、さらに「実戦」への道を求めて工夫を重ねていった。そして自由な撃ちあい稽古を実現するため昭和九年、防具の製作に取りかかった。太い針金を曲げ、面金や股金を作り、帆布を裁断して綿クズを詰め、面の頭当や頬当、胴下当、股当などを試作していった。澤山、山田錬一らとともに防具作りに励んだ多久(現渡辺)次郎七は苦心の程を回想する。「完成した面を試しに殴ってみると、顔面への一撃で面金が簡単に曲がってしまった。おまけに鼻は怪我するし、額にはコブができていて大変だった…」とにかく防具作りは試行錯誤の連続だった。しかし改良が加えられ、何とか実用に耐えるものができた時、澤山はうれしそうに語ったという。「これでやっと試合ができる」
 この防具の完成によって自由に撃ちあう「乱」の稽古法が確立した。

皆から慕われた澤山隊長
昭和十五年二月、澤山は応召により出征し、中隊長として中国南部を転戦した。特に情報作戦がうまく、宣撫工作にたけていたという。また軍隊での力自慢ぶりが「飛ぶ蠅も拳で突殺す ”攻勢が最大の防御”と荒稽古」の見出しで毎日新聞に掲載されたこともあった。数年前、澤山の戦友が中国を訪れた際、土地の人から「あの山の上に澤山部隊がいた」と説明され、戦後四十年たっても「澤山」の名が残っていたことに驚いたというが、現地の人から「チャクサン(澤山)隊長」と繁れ、本人も「敵から送別会をしてもらったのは自分くらいだろう」と自慢していた。二十年八月、澤山は陸軍大尉で終戦をむかえ、翌二十一年五月に復員した。そして二十二年頃から矢野文雄(元日本拳法会会長)らとともに拳法会の再建整備に取りかかった。また関大、関学両拳法部の師範をつとめる傍ら、拳法の普及にも力を注いだ。

正課体育の講師に<可能の論理が成りたたないからといって、ただちに、不可能の断定をしてはいけない。>

 「関西だけでやっていてもだめだ。全国、全世界に普及させなければ真の日本拳法とはいえない。そのためには、まず東京で広めよう」
 この目的で、昭和二十八年に初の東京公開演武が行われた。澤山をはじめ、矢野や日本拳法の姿三四郎と異名をとる山脇智ほか、七十人ほどのメンバーが勇躍、東京へ赴いた。型の披露や模範試合など、有楽町の読売新聞ホールで開催された公開演武は、皆がわかるように解説付きだった。ものものしく面、胴、こてをつけて格闘するため、スポーツ新聞の中には″ダイバーの戦い″と評したものもあったが、この公開演武は非常な評判をよび、翌年には慶応、早稲田、明治、中央、立正などの大学で日本拳法部の結成があいついだ。
 また二十九年には、関西大学で日本拳法が正課体育として採用されることになった。そして、その講師を澤山がつとめるようになった。
 拳法宗家に
 拳法の正課体育採用を機会に、澤山は創設以来続けてきた日本拳法会会長を、副会長の矢野文雄に譲り、宗家を号して「道」の研究に専念するようになった。昭和二十九年から開始された宗家制の経緯を矢野はこう語る。「武道の会長はいくらでもいるが、宗家はそうではない。武道家の場合、宗家の名をつけておかないと名前が歴史から消えてしまう。だから私はあえて澤山先生に宗家を称えてもらったのだ」
 ところで、現在の日本拳法会の隆盛は、矢野の働きを抜きにして考えられないが、澤山宗家のもとで矢野は女房役に徹した。それには訳があった。
 日本拳法会が発足して間がない頃、「大日本拳法会は唐手の道をとるのですか。それとも柔道の道をとるのですか」と、矢野が会の進むべき方向を尋ねたことがあった。これに対して澤山は、「どちらの道もとらず、日本拳法独自の道を行く」と答えた。この一言で矢野の気持ちは決まったという。「私は一生、澤山さんの手伝いをしよう」。そしてこの若き日の ″盟約″を矢野は忠実に実行した。
 生前、澤山は矢野の拳法会を運営していく卓抜した手腕を高く評価し、「いやな役は全部、矢野さんが引き受けてくれて、自分はいい役ばかりさせてもらっている」と深く感謝していたという。

 『日本拳法』の出版 <練達者よ 汝のもてるものを後進に科学という道具をもて解示せよ。>

 ところで澤山は終生、自分の道場を持たなかったが、道場を持つことは、やはり一つの夢だったらしく、実際に、十三の方まで土地を見に行ったこともあったという。しかし経済的な問題から、購入をあきらめたらしい。そして、たどりついた結論が、「道場の代わりに本を残そう」であった。
 すでに澤山は『大日本拳法教書』(昭和十四年八月二十日)と『日本拳法教伝 用の巻』 (昭和二十五年六月十五日)という二冊の本を著していたが、いずれも十分に意をつくしたものではなかった。そこで、「温故知新の主旨のもとに、東洋の古典と現代心理学、生理学等をアレンジして、拳法を科学的に究明しよう」と、三十数年問の研究成果を一冊の本にまとめた。それが三十九年十二月二十日に毎日新聞社から出版された『日本拳法』だった。執筆にあたっては特に、拳法の基本作りに志を注いだという。
 生涯の夢を託したものだけに、出来上がった本の評判は良かった。「拳法を理論的かつ科学的に分析し、従来の武道の教典には見られない新しい気風が感じられる」と各方面から賛辞があいついだ。現在、関大で日本拳法(正課体育)を指導する土谷秀雄(大阪市大助教授)も専門である体育学の立場から「東洋の古典をはじめ、幅広い知識と長年にわたる研究・実践に支えられた出色の指導書」と、この本を高く評価する。

 礼の尊重を率先垂範

 「拳法は礼に始まり、礼に終わる。この点、先生は厳しかった」と、澤山に直接指導を受けた辻見重行(関西大学総務局長)は語る。「拳法は使い方によっては大変な武器になる。だから武技の練習と同時に心の修養は欠かせない。礼とは人を尊ぶ心から生じるもの。謙虚な気持ちで互いに敬い、互いに譲りあわねばならない」と、弟子たちに対して精神面での成長を強く求めたという。そして、みずから率先して範を垂れたが、その語り口はあくまでも穏やかだった。
 教えを受けた者たちの印象はほぼ共通している。「訥々としたしゃべり方で、いつの間にか諭されていた」(辻見)「相手の立場を尊重した対応だったので、頭からしかられたことは記憶にない」(乾耕蔵昇龍館本部道場館長)
 また大学時代の同期生が集まってつくる昭七会のメンバーの一人、前田滝造もこう回想する。「大きな声で演説したりするのではなく、人を引き込むような話しぶりだった。物腰は柔らかで、武術などおくびにも出さなかった。武道家というより、むしろ宗教家のような感じを受けた」

「道」を求めて

<何の報酬もないのに、なぜ、そんなに苦労をするのか。それは、『道』があるからである。>

 「私は日本拳法の中心的な部分を作っただけだ。さらに研究を重ねて、より高いものへと発展させなければならない。それは君たちの仕事だ」澤山が残した日本拳法は、関西大学が生んだ運動文化として、国際的にも発展の一途をたどっているが、晩年にあっても澤山は機会さえあれば日本拳法の内容の充実を弟子たちに説いたという。もちろん、みずからも「道」の研究は怠らず、あらゆる学術書を読破していった。同時に、毎日のトレーニングも欠かさなかった。「道は単に知識のみで得られるものではない。全身をもって求めるべきで、必ず全身の活動による実践が必要である」が澤山のモットーだったからだ。
 それだけに昭和五十年九月、「宗家倒れる」の知らせは、関係者に大きな衝撃を与えた。以後療養につとめたが、五十一年十一月には肺ガンのため旭区藤立病院に入院した。日本拳法の友人や弟子たちも交代で看護を行ったが、ついに五十二年(一九七七)九月二十七日午前零時二十六分、妻千代子に見守りれながら七十歳の生涯を閉じた。その夜は空に仲秋の名月が冴えわたっていたという。なきがらは故郷、兵庫県美方郡村岡町の菩提寺に準られた。

  昭和六十一年十一月四日         
関西大学百年史 人物編p.p.663-669
編集:関西大学百年史編纂委員会    
発行:学校法人関西大学